最近のマスコミ報道での事故米問題についてご報告いたします。
当店取扱いの日本酒、本格焼酎に関しましては、全く無関係なのですが、少しご説明します。
当店の取扱いの蔵元さんは、原料米につきましては、全量、国内米、地元米、契約栽培米を使用し、製造をしています。
佐藤焼酎製造場さんに製造をお願いしています
延岡産イモ焼酎「祥雲・亮天」の製造段階にもお米が使用されています。
麹作り、1次仕込みといわれる段階です。
その後に、2次仕込みで初めて原料イモが混入されて、その後、蒸留されて焼酎になるのですが、先日、佐藤焼酎製造場さんからも、全量、国内産の原料米を使用していますとのご報告がありました。ご安心下さい。
当店は、安全性につきましては最善の注意を図っています。安心してください。
これからも、当店は、日々、努力、本物の日本酒、本格焼酎を伝えて行きます。
今後とも、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
酒のミネダ 峯田克明
延岡産イモ焼酎「祥雲・亮天」の名前の由来をご存知だろうか。
今から133年前の明治時代に内藤藩の最後の藩主であった内藤政挙(まさたか)が開校した藩校の、亮天社(りょうてんしゃ)から付けられている。
亮天社は1875年 (明治8年)~1903年 (明治36年)の28年間、延岡市にあった、当時宮崎県内唯一の私立の中学校です。
1872年 (明治5年)旧延岡藩の藩校廣業館が104年の歴史を終えたのち、翌1873年 (明治6年)、教育熱心な延岡の人々の熱意のもと、廣業館の跡地(現延岡市立岡富中学校地)に私立中学校延岡社学が創立された。
延岡社学は1875年(明治8年)に「亮天社」と改称され、1903年 (明治36年)に県立延岡中学校(現延岡高等学校)が創立されるまでの28年間、県内唯一の私立中学校として多くの人材を輩出した。
また、1889年 (明治22年)に宮崎県立尋常中学校(現宮崎大宮高等学校)が設置されるまでの16年間は、宮崎県内唯一の中学校であった。
1876年 (明治9年)には、亮天社の付属として女児教舎が設立された。これも内藤家の経営により、生徒は月謝不要、教科書は無償貸与であった。1901年 (明治34年)には、私立延岡女学校1906年 (明治39年)には延岡高等女学校となり、1929年(昭和4年)には県立へ移管された。
亮天社は、1903年(明治36年)に県立延岡中学校(現延岡高等学校)の創立によって廃校となった後、敷地建物校舎の一切が延岡高等女学校に引き継がれた。
亮天社の社主は旧8代藩主の内藤政挙。内藤家は教職員の給与負担はもちろん、生徒は月謝不要、教科書は無償貸与にするなど、設立からその後の運営維持管理まですべての財政を負担した。また、内藤政挙が慶応義塾に学んだことから福澤諭吉との関係もあり、亮天社の卒業生は無試験で慶應義塾に入学できた。この当時亮天社の学生は、数学の授業を、フランス語、英語などで学び。卒業後は、国会議員、県議会議員、町長、村長になるぐらいの優秀な人ばかりを輩出していたらしい。
大正12(1923)年:日本窒素肥料株式会社延岡工場(後の旭化成)が延岡市の恒富に設置された際、交渉した恒富村長は、亮天社出身だったそうです。その後 日豊線が全線開通した。
昭和5(1930)年:延岡町、岡富村、恒富村の一町二村が合併し新しく延岡町となった際も3人の首長さんは、皆亮天社の卒業生との話である。
※一町二村合併…工場建設に伴う敷地問題が動機となり、日本窒素社長野口遵と延岡町長、岡富村長(代理)、東海村長、恒富村長が昭和4年12月29日に協議したのが事の始まり。
昭和8(1933)年:延岡市誕生
祥雲・亮天とは、そんな脈々と続く、内藤政挙の教育理念と延岡人としての夢と情熱を現しています。